歴史
■「雪中花水祝」の歴史■
「雪中花水祝」の歴史は古く、江戸時代の文筆家・鈴木牧之による随筆「北越雪譜」にも、牧之が見聞した当時の祭礼の様子が記録されています。
「北越雪譜」の記述を委員が現代語訳したものを下に掲載しましたので、関心のある方はご覧ください。
ここでは、「雪中花水祝」の歴史を、Q&Aでまとめました。
現在、魚沼市堀之内で行われている「雪中花水祝」の概要を教えてください。
「雪中花水祝」は毎年2月11日(祝日 建国記念の日)に行われています。メインとなるのは、新婚の男性に極寒の中で水を掛ける神事ですが、その他にも裃・巫女などの古式ゆかしい装束に身を包んだ参加者達の大行列、御神体(男性器)を象った神輿、新婿(または新婦)出身地への迎え行事など、たくさんの見所があります。
毎年2月11日に行われるのは何か理由があるのでしょうか?
江戸時代には旧暦の小正月(1月15日)に行われていました。新暦の2月11日は祝日であり、また本来の日程に近いので、その日に開催されています。ちなみに、2020年の2月11日は旧暦だと1月18日です。
「雪中花水祝」は江戸時代にも行われていたという事ですが、もう少し詳しく教えてください
堀之内において、江戸時代にも行われていたのは間違いないようです。当時の「雪中花水祝」の様子は、鈴木牧之という人物が記述した「北越雪譜」という書物に記載されています。古典的な「雪中花水祝」は明治6年に一度廃止されました。現在の「雪中花水祝」は、1988年に当時の商工会青年部のメンバーが中心となって、115年ぶりに再興したものです。
鈴木牧之とは、どういう人物でしょうか?
鈴木牧之(1770-1842)は江戸時代の塩沢の商人、文筆家です。元服の後、堀之内の商家・宮九に見習いに入りました。主人である五代目九左衛門と、その弟である俳人・宮徐々坊とは終生の付き合いがありました。また、牧之の長男・伝之助は早逝しましたが、その若後家・やすは、六代目九左衛門に嫁いでおり、牧之自身の4度目の妻は堀之内から迎えています。このように、牧之は堀之内と深い関わりがあります。
「北越雪譜」とは、どういう本なのでしょうか?
「北越雪譜」(ほくえつせっぷ)は、1837(天保8)年に出版された鈴木牧之の著作で、暮らし・方言・奇談・民俗・産業など、江戸時代後期の魚沼の生活が様々な角度からリアルに描写されています。当時のベストセラーでもあります。江戸時代後期の『雪中花水祝』は、牧之自身の観察や当時の堀之内の知識人の知見を交えて、この「北越雪譜」に活写されています。
雪中花水祝のシーズンには、カラフルな鳩枝が町を彩りますが、この鳩や鳩枝について教えてください。
昔は「モノツクリ」と呼ばれる小正月の予祝行事が、日本全土で広く行われていました。その「モノツクリ」の一つに、「団子飾り(繭玉飾り)」というものがあります。農村ではどこの家庭でもみられた習俗で、団子の木(ミズキ)の枝に繭・野菜・穀物などに見立てた団子や切り餅・稲穂などを飾り立てるものです。団子は粳米の粉を練って作られます。この団子飾りは床の間などに飾られ、正月納めに食べると年中病気をしないといわれていました。また、ご存知のように鳩は一般的に八幡宮の神様のお使いとされています。この「団子飾り」と鳩の形象が融合したものが、堀之内の鳩枝飾りではないかと考えられています。
「古くから町場の様相を呈していた堀之内村の商人が、八幡宮の春祭りに団子や繭玉に代え鳩をかたどった飾りを鎮守に供え、また参拝に来た人々に分けてやったといわれている」『堀之内町史』
堀之内出身の歌人・宮柊二も、鳩枝の歌を詠んでいます。
「枝先に五色の小鳩とまらせて豊年をまつわがふるさとは」
「糝粉細工の赤青の鳩にぎにぎし送りきたれる鳩まつりの枝」
「糝粉細工の赤青の鳩枝につらね小正月祝ふふるさとびとは」
「八幡さまの境内の雪に華やかに豊年鳩の枝は映えいむ」
現代語訳「北越雪譜」(雪中花水祝の項)
魚沼郡の『宇賀地の郷』堀之内の鎮守『宇賀地の神社』の本社は八幡宮である。大昔からこの地にあるという。この社の縁起文は多いので省略する。霊験あらたかなことは広く世によく知られている。神主の宮氏の家には、貞和、文明の頃の記録が伝わっている。現在の当主は文雅を好んで、吟詠もしている。その名は正樹といい、私も同好の士なので交友がある。この神社は幣下という配下の末社を各地に持っている大社である。
この神社の氏子で、堀之内で嫁をもらったり婿を迎えたりしたときは、神勅と称して婿に水を賜る。これを「花水祝い」という。毎年、正月十五日に行われる神事である。新婚の家には神使がまわるが、該当する家が多いときは早朝から夕方までかかる。友人の墨斎翁(堀之内に住む、宮治兵衛のこと)が言うには、
「花水祝いという名前ですが、淡路宮の瑞井の中にタチバナの花が落ちたという吉事が「日本書紀」にありますので、そこから来たのではないでしょうか」
ということである。新婚の婿に神水をそそぐことはこの社の神秘である。
当日は、新婚の家に出向く神使を動めるのは、百姓のうちでも旧家で格式のある家の人と決まっている。服喪中はもちろん、やもめ、家に病人がいるもの、親戚に不祥があったものなどは全員除き、家庭にまったく差し障りがなく平安無事なものを選ぶ。神事の前の朝、神主は沐浴斎戒して身を清め、斎服をつけて社に昇り、選ばれた人たちの名前を記したおみくじをあげ、神慮によって神使が決まる。神使に当たった人は潔斎してこの役を勤めるが、この人を『太夫』を呼ぶ(墨斎翁は、この役の人を浄行神人といって、太夫というのは里の言葉である、という)。
さて、当日(正月十五日)神使が社を出で立つ格好は、先挟箱二本、道具台、笠立、傘、弓二張、薙刀を先に立て、神使は侍烏帽子を被り、素襖を着る。次に、太刀持、長柄持、傘を差しかける供侍二人、草履取、後槍一本(これらの品は、神庫にあるものを使う)、次に、氏子が大勢、麻の裃で従う。こうした出立ちで新婚の家に行くので、行列が通る前に雪中に道を作っておき、雪で山道のようになっているところは雪を石檀のようにしたり、または雪で桟敷のような場所も作り見物しやすいようにする。これにも大勢の人手を要する。
神使を迎える家では家の中をよく清める。なかでもその日、神使を通す一間は特に念を入れて塩をまいて清め、花むしろを敷いて上座には毛氈を敷き、上段の間に見立てて刀掛けを置く。次の間には親族はじめ親しい人たちからの祝儀を並べておく。嶋台にめでたい歌を詠んだものなどを飾るなど、家によってさまざまである。門には幕をかけ、ほどよいところを絞り上げてそこに沓脱ぎの壇をしつらえ、玄関式台とする。家族一同、衣服を改めてそろって神使を待つ。
神使が到着すると、親のいるものは親子ともに麻の裃姿で外まで出迎える。神使の草履取りは先に走ってきてふみはだかり、「正一位三社宮使者」と大声で叫ぶ。迎えに出たこの家の亭主は神使に平伏し、正殿に案内する。行列は家の左右で隊を組んでいる。 神使に煙草盆、茶、吸い物などの膳を出して酒の数献をすすめ、改めて婿に盃が与えられる。三方(白木で作った儀式用の台)と素焼の盃を用いる。
肴をはさんで、献酬は七献までする。盃ごとに祝儀の小謡をうたう。以上が終わると神使は去っていく。こうして新婚の夫婦がいる家をまわり、同じような式をする。神使は花水を神からいただくことを、氏子に告げる使いなのである。また、神使が社に帰る時には酒肴を用意してある町庄屋の家に立ち寄る。
神使が社に帰ると、踊りの行列が繰り出す。
一番は傘鉾に錦の水引をかけめぐらして鈴をつけ、裂で作ったものなどを下げ、上には諌鼓を飾る。これを持つ二人は、紫縮緬で頬を包み、結んで垂らし、そろいの紅絞などで片たすきにかける。墨斎の話だと、祭礼の傘鉾は、古くは「羽葆蓋」と書いて、いわゆる繖 (絹傘)をいい、神輿鳳輦を覆う錦蓋だという。この話はまだあるが、長くなるので省略する。
二番は仮面をつけて、天鈿女命の扮装をしたものが一人。箒の先に女性器を描いた紙をつけて担ぐ。
次は猿田彦の出立ちで仮面をつけて、麻で作った鏡帽子のようなものをかぶり、手杵の先を赤く塗り男性器にかたどったものを担ぐ。
三番は、法服をきらびやかに着飾った山伏が法深貝を吹く。
四番は子どもたちの警護で、思い思いに身を飾って従っている。
その次に大人の警護で麻を着て杖を持って警戒に当たる。
五番は踊りの者たちが大勢で、華やかな浴衣を着て色つきの細帯をして群がっていく(正月ではあるが、熱気を持った人々が大勢集まるため浴衣姿なのである)。 これを、里の言葉で「ごうりんしょう」という。降臨象であろう。 天孫降臨の際、日向の高千穂の峰に天降ったことをかたどったものであろうと県斎翁はいう。他にも説はあるが略す。
さて、婿の方は踊り場を自宅の前に用意し、新しいムシロを敷き、新しい手桶二つに水を汲み、松葉と昆布を水引で結んでムシロの上に置き、銚子、盃をそばに置く。水取といって、婿に水を浴びせる者二人、副取という者二人、それぞれたすきをして凛々しく立っている。婿は浴衣に細帯を締め、踊りの行列が近づいてくるのを待っている。踊りの行列がその家に近づくと、踊り手は婿の用意したムシロの周りを群がり、歌いながら踊る。その歌は、
めでためでたの若松さまは、枝も栄ゆる葉も茂る。
さんやめでたい花水さんや、背なに浴びせん我がせなに
歌詞を替えて、繰り返し歌い踊る。事になれた踊りの「警護」や、水取たちはその成りゆきをみて、婿に三献を祝い、用意した手桶の水を二人で左右から滝のように頭に浴びせかける。これを見た大勢の見物人は手を打って「めでたい、めでたい」と祝う。婿はそのまま走って家に入るが、踊りも家に押し入って七、八回も踊り歌い、ぞろぞろと家を出て行く。
外に出た人たちは、再び行列を作って別の婿の家に行く。婿の家が終わっても、踊りは宿場役人の家や、気心の知れた人の家などをさらに踊り歩く。
田舎では珍しいものを見ることは滅多にないから、この日は遠くからも近場からも老若男女が、蟻が集まるようにして群がり、一団となって興奮し、熱狂する。そのさまはここには書ききれない。
私が思うに、婿に水を掛けるということは、男の陽火に女の陰の水を浴びせて子を得るまじないで、妻の火(月経の意)をとめるという祝い事なのである。この行事は室町時代に武家の風習から起こり、農民や町民もこれにならってやや行ったことが書物に書いてある(貝原益軒先生の『歳時記』には、松永弾正が行った婚礼から起きたとある)。江戸でも宝永のころまでは世間一般正月十五日の行事として、祝い事のようになって流行ったが、婿に恨みのある者が、水祝いに事寄せていろいろと乱暴を働くこともあり、そのために人死にが出たことも度々あったので、正徳のころに国禁となり途絶えた。詳しいことは『むかしむかし物語』(国の初めからの出来事を記した写本で、元禄年中に盛りを過ごした人の年とってからの作である)という書物に書いてある。
当地の花水祝いは、社の『神秘』とされているので、これとは別の由緒などもあるのであろう。畏れ多いことだ。雪のついでに大略を記して、好古家へ話題を提供するくらいにしておこう。